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深淵を覗く 5/2

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最近は自分のマインドのコントロールに四苦八苦
自分であるはずなのに、コントロール出来ない何かに焦燥感を感じる
 
まずは自己開示と自己理解からと
ブログをつけてみようと考えた
 
やりたい理由を作る為だ
 

 

私は元来考える事が好きだ
一人っ子の鍵っ子だった事もあり、私の遊び相手は目に見えない誰かだった
いや、私にはハッキリ見えていた彼、彼女、または”何か”は、第三者には見えない誰かだった
 
 
当時の家庭環境は私にとって最悪であった
そのすべての理由の根源は父の存在だった
父は絶対的な権力だった
私は父の機嫌を損ねまいと、母を困らせまいと
私の判断基準は常に私の体を離れた外側にあったのだ
 
そんな事もあり、私は黙する死者宜しく、口を閉ざし思考する事にハマったのだと思う
その思考も、もっぱら現実を認識せずにいられる妄想という世界だったが
 
 
そんな思考の癖は社会に出てやっと私自身が認識出来るレベルで発芽するのだ
”あれ、なんか俺、他の人と違うな”
 
 
初めて私が自分自身を思考し、
自分の人生を始めた一歩だった
 
私は20歳にしてやっとこの世に生を受けたのだ
 
 
 
 
 
しかし
びっしりこびり付いた思考は本当に厄介だった
繰り返し繰り返し、幼児に言い聞かせるようにコントロールしていかなくてはいけない
 
自分の主人の声に耳を傾けると言うのだ
 
”逃げてしまえ”と
 
 
そう
私は今まで自分の人生を他人に預けて生きてきた
だから今この現状も私の責任ではないのだと
 
 
完全に理屈と心が乖離してしまっている
 
今日読んだ
マーク・トウェイン著”人間とは何か”
 
ではこう綴られている
 
”人間即機会ーー人間もまた非人格的な機関にすぎん。人間が何かってことは、すべてそのつくりと、そしてまた、遺伝性、生息地、交際関係等々、その上にもたらせる外的力の結果なんだな”
 
”彼等はみんな会社員としての精神や、職人としての精神じゃなくて、兵士としての精神を満足させなくちゃならんことになる”
 
 
つまり人間とは様々な外的要因から形作られ、それに合わせた挙動を取ると言っている
私はこの本を読んで幾分か救われたのだ
 
 
今の私を肯定してくれるからだ
 
 
しかしこの本で語られる事を正していくと私にとって不都合な真実が見えてくるのだ
環境によって私の主人は形作られ、私を操っているのだ
しかし、それは裏を返すと環境によって私の主人は形を変える事が出来るという事だ
 
私は未だ自分を変えられると信じていない
しかし、それを信じたいのだ
 
 
カンボジアで事故を起こした時
正直な感想で言うと、死よりも今後の生活が怖かった
不自由な体で、苦しみが多く続く人生になるかもしれない と
 
後で振り返ると、本当に死んでいたかもしれないという理屈の”死”だった
 
 
果たして本当にそうだったか?
振り返ってみても、私の頭はとても冷静だったと思う
冷静に今何が起こってどうなって、体の異常や周囲の状況
これからどうなるのか、同乗者の言い訳
 
 
私の頭は冷静に処理していた
その中で私は”もしこのまま死ぬとするのは、漠然ともったいない”と感じたのだ
 
それは
綺麗と考えて出てくる”綺麗”なのか
綺麗と感じて出てくる”綺麗”なのか
 
私にはわかりませんでした
 
しかしそう思考した事だけは覚えています
 
 
 
 
環境が人を形作る
私はこの考え方を信頼しています
実際に私もポジションによって育てられています
 
 
そして今
私は強く変わりたいと感じています
それは、今まで生きてきた中で義務としてこなす義務ではなく
初めて自分の人生を豊かにしたいという祈りなのでしょうか
 
 
 
 
私を動かす私はどういう私なのか、私はそれさえも掴めずにいるのだ
 
 
最近私の中で見つけた答え 楽 だ
 
私の心は 楽 を求めているのではないかと
仮定を立てている
 
 
苦しい現実から
逃げて楽を追う
死んでしまえば全部チャラだから
全部逃げて楽になれと
 
そうして感じるのだ
私の主人には想像力が足りないと(笑)
 
私は死なない
そして逃げの果てにある選択を持ち前の想像力を働かせて観るのだ
 
 
そこには
逃げて逃げて逃げた末に
運命になって佇む”苦”がある
 
決して楽な人生ではないな
我が主人よ
 
 
私の今までの問題は
よくよく考えれば私の行動だけで解決できる問題なのだ
 
 
 
恥もプライドも何もない
あの日カンボジアで私は一度死んだのだ
怯まず逝けよ
 
 
 
やっと
やっと
やっと
 
 
私はこの世に生を受けたのだ
私自身で生きるこの世を